頷く

 

 

 年末に菅野に呼び出されて訪ねた先は、東京の水天宮という場所だった。「いやぁね、今日、あんたを呼んだのはさ、ちょっと蕎麦でも一緒に食べようと思ってのことなんだ。この辺りに俺の知り合いが、事務所もっててね、そこで待ち合わせしてるんだよ。」

 

 彼から声がかかるときは、たいていこんな具合に急である。きっと、それは悪い言い方をすれば「思いつき」だし、良い言い方をすれば「インスピレーション」ということになるだろう。傍から見たら、恐らくは不思議な行動に見えるに違いない。この数年来、すっかり有名になってしまったエアロコンセプトの創造者であり、創設者である菅野の交友関係は、果てしなく広がっていて、何も売れぬ文筆家や熟練の技術者ではあっても、名を知られているわけでもない映像ディレクターに、年の瀬の忙しい時間を割く必要もないように感じるからだ。

 

 しかし菅野は、どういうわけか、そういうある意味での「弱さ」を抱えた人間に興味を抱くのだ。「やっぱりね。あなたは、だいたいそういう人間だと思ってたよ。上手く人間を使えないんだよな。分かるんだよな」。こんな言葉が、菅野の口からこぼれたのは、訪れた先の事務所にて、映像ディレクターから愚痴ともとれるような仕事での人間模様のいきさつを聞いてからだった。人間関係を上手くやっていけぬことを吐露していた彼は、「えっ、本当に、どうして分かっちゃうんだろう?」と不思議そうな声をあげていた。「だってさ、そもそもオレはさ、何でも卒なくこなすようなタイプの人間には興味ないもの。なんでかって言ったらさ、そういう人は、分かろうとしないんだよ。物事を理解しようとしないんだよ。」そう言うと菅野は、その後、しばらく続けられた映像ディレクターの話に「ああ、そう」とか「うん、そうだよね」とか「ほらね、やっぱり」とか、ずっと間の手を入れ続けていた。そして、よくよく聞いていると、その相づちに何とも言えず味があって、心地よいのだ。

 

 これは、別に菅野が意識して、この相づちを打っているということではなさそうだ。しかし、表現しがたい演歌のこぶしのようなものが、彼の相づちには滲んでいて、それは「温もり」のようなものや「優しさ」とさえ呼んでも良い空気をまとっている。弱者に対する優しさと言ってしまったら、筆者にしても当の映像ディレクターにしても、立つ瀬がないのだが、そうとしか呼べないような何かが、そこには含まれていることは否定できない。

 

 弱者の肩を持つという気質を備えた菅野は、こんなこともよく口にする。「オタクとかさ、引きこもりとかさ、ニートだとかさ、今の時代は、よく聞くじゃない?

だけどさ、オレ、それって、すごく正しいことだと思うんだよな。それ、正解だよって。だって、そうならざるを得ないもんな、何かものをやるっていうのはさ。オレだってさ、(エアロコンセプトのことを)みんながいいですね、いいですね、凄いですね、格好いいですねって、言ってくれるんだけど、実際には、オレだって、引きこもりだよ。だって、やってることと言えばさ、工場でセコセコやっているだけだからね。むしろ、そうやってさ、ひとりきりの世界に没頭して、”ちょっと待って、邪魔しないで”って言えなきゃ、あんなもの、できっこないんだから。工場に引きこもっていることを楽しめなかったら、エアロコンセプトだって、間違いなくこの世には存在しないんだからさ」。

 

 この話の流れから菅野の発言を少し聞いただけでは、彼の言葉が、ただ彼の優しさから出ただけのように聞こえるはずだ。しかし、この言葉をよくよく噛み砕いてみると、彼は本心からそう考えているのがよくわかる。つまり、「弱さ」というところに何か物事を突き破るヒントが潜んでいると信じているのである。「オタクとか、引きこもりの何がいいってさ、自分の好きなものが分かっていることなんだよ。自分の好きなものはフィギュアだぁ!とかさ、今の社会は絶対に嫌だ!とかさ。本当に好きなこと、本当に嫌いなことを知っている人っていいじゃないか。そういう人って、、今の日本の社会には、ほとんど、いなくなっちゃったんだよ。情報が溢れ過ぎているから、適当に好きなものとか、嫌いなものとか、そういう趣味趣向程度のもので満足しちゃってんだよな。」

 

 確かに、日本という国は豊かになり過ぎたあまり、優柔不断に陥り、一心不乱に物事を突き進める好奇心のようなものを失ってしまっている、とも言える。選択肢に溢れ、適当な幸福感を感じる平均的なライフスタイルがオタクを迫害しているという見方もできないことはない。しかし、筆者が彼の考えを本当に理解できるには、次の言葉を待たなければならなかった。「でもさ、昔の人は違ったんだよ。考えてもみてご覧よ。パナソニックだって、ソニーだって、最初は凄い特殊なことをやっていたわけだよね。だから、日本の元々の創業者っていうのは、そこそこオタクだったんだよ。オーイッ。こっち行くぞ!ってさ。技術とかアイディアで会社を引っ張っていったんだよな。ところが、これが時が流れて、創業者が死んでいなくなっちゃうと、残っているの雇われ社長と株主でしょ?

そうなったら、いくら東大だ、京大だって、騒いでみたって、どうやったら儲かるか儲からないかという話になっちゃうんだよな。つまり、昔の人みたいに、これが好きなんだ。オレはこれでいくんだ。っていうのがなくなっちゃったんだよな。」

 

 なるほど、彼が言っていることは、現代の二十一世紀という潮流を肌で感じての率直な意見なのである。彼が「弱さ」というものに着目するのは、そうした人たちをサポートし、助けるのが格好いいからという男の美学としてのこともひとつにはあるだろう。しかし、どうもそれだけではない。彼の野性的な勘や直感というものが鋭く働いているとすれば、現代の社会的な「弱さ」というものは、「強さ」に転じる力を秘めている、ということになる。「今は、政府も大企業も、みんなサラリーマンで自分の強い意志、つまり好き嫌いなんて持たないんだよ。でも、こういう大変な時代のなかでさ、自分の好きが分かっている人間ってのは強いんだよ。」

 

 では、どうして、それが「強さ」に変るのか?

今の世の中では、好きなことを探求するということは、少なくとも常識的には「難しい」ことと見なされている。しかも、そうやすやすとは世間はそれを受け入れてくれもしなければ、認めてくれることもない。つまり、それは「社会的弱者」に転落させられる可能性を多いに含んでいるわけだ。それゆえに多くの人は、好きなことを追求するという道を半ばにしてあきらめることになるのだ。

 

 「不況のただ中にあるとさ、国も大企業も、身動きがとれないんだよ。しかもみんなサラリーマンだろ。根元が腐ってきちゃっているんだから、オレらみたいな、下請けや孫請け企業というのはさ、細胞分裂じゃないけど、細かく細かくなっていかないと立ち行かないんだよな。だから、後は、もう戦後の焼け野原みたいに、日本の経済がまっさらになった後、どうなるかしかないんだよ。そう考えるとさ、誰の言うことも聞かないで、コツコツと何か好きなことを追求してきたオタクの力っていうのが、凄いっていうのが分かるんだよ。だって、彼らは、本当に好きなことを好きなだけ探求して、後は、好きなものを形にできたら、それが今まで誰も見たことがなかったようなものを生んで、価値になるじゃないか。」

 

 実はこの話には、菅野自身の経験も重ねられている。エアロコンセプトにおいて、いわゆる企業で行われる研究開発というものを、菅野は全て自分の頭の中と、自らの手だけで行った。まさに、細胞分裂というのは、菅野自身のこと、旧渓水のこと、エアロコンセプトのことにもあてはまるのだ。

 

「オレが倒産した後にエアロコンセプトをはじめたのだって、一緒かもしれないよな。オレだってさ、もっと能力があって、もっと賢かったら、あの倒産の後、他のことをやってたかもしれないよな。例えば、全く違った方式を発案して工場を運営しようとか、あるいは業種を変えちゃおうとかさ。でも、オレは板金工しかできなかったんだよ。だから、会社もうまくいかねぇし、どうせだったら、死ぬまでに本当に自分が好きなものをつくってみようって、単純にそう思ったんだよな。だからさ、人からの意見なんてのには、一切耳を貸さないで、好きなもんつくったんだよな。だからさ、オレの話がいいか悪いかは置いておいても、オタクとか引きこもりってのは、凄い可能性があるんだと思うよ。だってさ、横から頭のいいやつが、訳知り顔でやり方を指南してみろよ。そんな雑音が外界からいっぱい入ってきてみろよ。突出するやつなんて出てくるわけないだろ。つまり、日本から世界に何か発信する凄いやつが出てくるとしたら、自分の中での自問自答ができていて、好き嫌いがハッキリしているオタクとか引きこもりみたいなやつからだと思うんだ。そして、そういう好き嫌いをハッキリ言うやつのところには、当然、ニーズだって集まってくるんだよ」。

 

 菅野は頷くのが上手い。昔で言うところの聞き上手というのは、菅野のような人物のことを言うのかもしれない。しかし、それは、決して彼が話術として駆使しているものではない。ましてや、弱者に対する施しとして行っているものでもない。彼が頷くのが上手く、そして弱者にも優しく頷くのは、彼が本当の意味で世界に対して、未だなお、大きな興味を抱いているからだ。弱い人間に対する計り知れない優しさを示しながらも、菅野の目は世界の面白いところ、興味深いところに鋭く向けられていく。菅野の頷く力は、多くの人に勇気を与えながらも、彼自身の世界観を広げる覗き窓の役割も担っているのである。