率いる

 

 

 菅野は職人であると同時に経営者であり、社長であった。それも長い間、そうだった。しかし、株式会社渓水が株式会社エアロコンセプトになってしばらく経ったある日、私は耳に妙な言葉をつかまえた。「オレさ、最近、偉そうなところから離れて、一職人に戻ってみたら、すごく気分いいんだよ」。彼はこんなことをボソッと口にしたのだ。

 

 最初は、「まさか」と思いはしたものの、やはり気になって私は、彼に聞いてみた。「菅野さんは、新しくなった会社でも代表取締役をつとめているということで、いいんですよね?」と。

 

 すると、彼は、「新しい会社は、エアロコンセプトというモノをさ、つくったり売ったりすればいい会社なんだよ。オレ、すごく単純に考えたんだよ。オレが好きなモノを気に入ってくれるお客さんがいて、それを渡せる工場があって、オレの想いに賛同しながらそれを一緒につくってくれる職人たちがいて、それを包むように会社がある。それが株式会社エアロコンセプトだったら素敵だなってさ。オレ、企業のトップと群れのリーダーっていうのは、同じものじゃないと思ってるんだ。企業のトップってのはさ、合理性とか利便性を生み出せる、ある種の狡猾な人間がなるもんだろ? どっかの自動車メーカーの外国人CEOだとかさ、昔ながらのモノづくり企業の外国人会長だとかさ、大企業なんてところは日本人社長だって、きっとみんなそうなんだろ? ところがさ、群れのリーダーっていうのは、違うんだよ。生命体として強くなきゃいけないし、自然とみんなを惹き付けないといけないんだよな。オレさ、社長とか専務とか部長とかさ、そんな肩書きには、何の興味もないんだよ。だから代表取締役っていうのからは、外れることにしたんだ。」

 

 なんと菅野は、創設された新生エアロコンセプト工場において、社長の座を退いていたのだ。しかし、菅野の言っている意味はよくわかった。それは、お金を儲けることだけを目的としている今の多くの会社の有り様と、「喜び」をつくることを「喜び」としていた古き良き町工場の有り様を私に思い起こさせた。今のほとんどの会社は、お金を生み出すためのテクニックを知っている人間をトップに据えようとする。それは往々にして、「コストカット」や「タイムマネジメント」や「システム化」の達人であるのだろう。しかしこれに対して、古き良き町工場のリーダーは、あるモノやサービスのアイディアに「喜び」を見つけ、その「喜び」を形としてつくり出し、その「喜び」を独り占めするのではなく、いかにして多くの人に配るかを考え、仲間に語り、共感を得て、共に働き、またその働くことに「喜び」を見出す。

 

 前者に集まるのは主に「資本」とか「お金」であろう。合い言葉は「もっと稼げ、もっと早く」だ。これに対して、後者に集まる主なものは人々の「想い」とか「共感」である。ここに送られるエールは「わかるよ、その気持ち!」とか「いやぁ、最高です!私も仲間に入れてください!ついていかせてください!」だ。つまり企業のトップには、数字を上げられる最適任者が任命されるが、群れのリーダーには(ここでは分かりやすいように町工場と考えてみるといい)、夢想家、情熱家が自然な形で座すということになるのだろう。

 

「日本の大企業は、円高とか不景気のせいで業績不振だなんて言っているけどさ。本当にそう思うかい?

根本が変わっちまってしまったとは思わないかい? 松下幸之助だって本田宗一郎だってさ、絶対にただの合理主義者や効率主義者ではなかったはずだろ? もっと単純な想いだとか、小さくまとまった概念だとかをさ、一生懸命、探求していたと思うんだよ。それが町工場から大きな国際企業になって、創業者の想いが時間と空間の流れに薄められていくと、根本を失ってしまうんだよ。株式会社エアロコンセプトは、人の集まる良い箱であって欲しいって、オレ、思ったんだ。だから、そこに小さな単位の人が集まって、小さな単位のみんなが一緒に考えて、オレもその箱の中に小さな単位として身を置いて、将来はさらに小さな単位になっていく準備をしたいって思ったんだ」(菅野)

 

 彼の言う「小さな単位」というものが具体的に何を指すのか? それは全くわからなかった。しかし巨大化という資本の罠からは遠ざかろうとする、彼なりの考えがそこに潜んでいることは確かだった。私は、この「小さな単位」というものを、「自分自身が等身大でいること」なのではないか? と考えた。それは、お金の原理に振り回されずに、自分の感性や直観を軸に仕事をする、とも言い換えられるのかもしれない。

 

 菅野は語る。「それぞれが小さな単位のみんなの中で、また、リーダーらしいやつが現れたら、リーダーの資質を伸ばしていってやってさ、暖簾わけみたいな形で分社化してリーダーをやっていってもらったらいいんだよ。リーダーっていうのはさ、人間的な魅力があるやつが自然にやればいいっていうだけの話だよ。会社ってところは、確かにお金を稼ぐ場所でもあるんだけどさ、それだけじゃないだろ? 本当ならさ、そこは、人の心を育む場所だったり人生の大切な記憶、美しい思い出の場所にもならなくちゃいけないはずだよな? その場所や時間を資本主義の頭しかなないやつに仕切らせるのは悲劇以外の何物も生まないのは明らかだろ? 株式会社エアロコンセプトではさ、今ある大企業みたいな組織づくりなんかしないでさ、小さなリーダーを囲んでどんどん細胞分裂していくっていう考え方を取りたいんだよ」。

 

 菅野は社長であることを辞退したが、彼の口ぶりからすると、彼はまだ精神的なリーダーではあり続けるようだった。エアロコンセプトという名を冠した会社で「菅野がリーダーではない」などということは誰にとっても考えにくいことだ。何故ならエアロコンセプトを創造したのは彼であり、彼そのものであるからだ。だから、私は彼の口調から彼が企業のトップからは降りても、リーダーでありつづけている事実を確認できて、少しホッとしていた。しかし、菅野の組織論というものは、どんなメディアでも、ほとんど耳にしたことがないような組織論だった。「小さな単位」「細胞分裂」「小さなリーダー」「暖簾わけ」。まったく不思議なことを考える男だ。しかし、こうした凡人には理解しがたい発想で群れを導くのは、どう機能するのか? 私はそこに興味があった。何故なら、時代は行き止まりへと来ており、新しい発想が必要なことは明らかに思えるからだ。

  

 「いや実はさ、オレも格好いいこと言っちゃってるけどさ、ウチもいろいろ大変な時期というのはあったんだよ。そんな中でさ、会社の仲間たちがついてきてくれるのは本当にありがたいことなんだよ」そう語る菅野の会社の驚きの事実を聞いたのは、それからしばらくしてからのことだった。

 

 実は、菅野はあるとき、会社の社員を全員集めてこう言ったことがあるそうなのだ。「明日から全員、解雇です。でも、その代わり、明日からみんな個人事業主だ。その上でウチと付き合っていっていってくれないか?」と。彼が言ったことの意味は、正社員から非正規スタッフになってくれ、というものである。もちろんそこには、「金銭的事情」という会社経営の側面もあったのだろうが、柱となっていたのは「小さな細胞」の組織という哲学的な側面である。今の社会常識から考えれば、ある日「正社員解雇」を言い渡され、次の日から「個人事業主」になれと言われたら、「はい、そうですか」とおいそれと聞く人はわずかだろう。多くの人は、その方針に抗議するか、その組織から離れ別の働き口を探す道を選ぶはずである。現代社会において、それほど「正社員」「正規雇用」という言葉は力を持っている。しかし、彼の仲間たちはまったく違った反応を示したのだ。誰ひとりとして、彼の元を去ろうとはしなかった。そればかりか、「ああ、もうわかったわかった。菅野さんの考えていることはわかるから、心配しないでいいよ」とか「大丈夫だよ。問題ないよ。何とかなるよな」など、リーダーをおもんぱかるようなセリフばかりが聞かれたのだった。まったくリーダー冥利に尽きる話だ。スタッフたちはまるで家族のように菅野を取り囲み、「前向きな全員解雇」に理解を示し、菅野についていく道を選んだのだった。「あんときはさ、オレもさ、内心では申し訳ないとは思っていたんだ。だけどさ、何だか知らないけれど、オレについてきてくれたんだよな。それも契約とか条件とかじゃなくて、オレの考えに、同意や賛同をしてくれた結果ね。本当にありがたいことだよ」。

 

 菅野という男は、非常にアナーキーでありながらとてもリベラルな考えを持った人物でもある。尖った独創性あるモノづくりへの執着(ある意味では独裁的とも言える)を見せながらも、多様性を受入れる民主的な包容力も備えているのだ。彼のような人間をリーダーに持つ群れは幸せなのか? それとも不幸なのか? あるとき菅野はこんなことも冗談とも本気ともとれる話ぶりで語っていたことがあった。「オレはさ、家族にも、工場のみんなにも、一緒にオレの夢につきあってくれよ。心中になるか、成功になるか行ってみなきゃわからないけどさ。一緒に歩いていこうよ。その代わり困ったときはオレが全力で守ってやるからさって。そういう気持ちなんだ」。また、あるときは、こんなことも語っていた。「会社に金がないときは、みんなに我慢をしてもらうんだ。その代わり金が入ったときは、みんなでちゃんと山分けするんだ。ウチの会社は、そういう当たり前の群れでいたいんだよ」とも口にしていた。

 

 この話だけを聞いたら、この町工場は、本当に21世紀の会社なのだろうか? と疑いたくなってしまう。確かに、日本には、ワンマン社長が率いる、奇妙な方針の中小企業というのが数限りなくあるのだろう。しかし、そのなかに「古き良き家族のような会社」と呼べるものが、一体どのくらいあるだろう?

そうした会社は、ほとんど絶滅に近いはずだ。しかし、菅野の町工場は、「古き良き家族のような会社」と呼べるだけではく、「自然発生的なリーダー、人間的魅力のある人物が率いる会社」でもあるのだ。

 

 だが、そこに菅野のリーダーとしての工夫や思案というものは何もないのだろうか? リーダーとして苦悩や葛藤というものは何もなかったのか? この問いに菅野はまともに答えてはくれず、はぐらかされるばかりであった。「オレは、組織のトップにいるのが得意な人間じゃないし、そこにはちっとも心地良さを感じねぇからさ。そんな苦悩とか葛藤なんて、わけわからないよ」と。

 

 しかし、私は目撃したことがあった。あるとき工場で菅野が一悶着した後で、ひとりぼやいているのを。菅野と職人の間で、製造方針と製造方法に関して、大きな意見の食い違いがあったのだ。しかし、菅野は職人たちを強い物言いで封じ込めていた。それは、力技と言ってもいいほどのものだった。「菅野さん、そんな方向へ行ったらこの工場、大変なことになりますよ」「社長、そんなの現実的じゃないよ」と、職人たちから様々な意見が出てくるのを菅野はほとんど聞かなかった。だから、結果として、菅野は諦められ、そして呆れられた。彼は、わがままで頑固なリーダーとなり、何を言っても仕方がない人間として扱われた。しかし、この一悶着の後、彼は人知れず、ぼやいていたのだ。「いやぁ、人の意見に耳を閉ざして、意見を押し切るのも大変だよ。なかなか呆れてくれなかったりするからな。でもさ、ここだけの話、あいつらの言ってること、オレ、全部、凄くよくわかるんだよ。あいつらの意見、本当は、じっくり、ひとつひとつ、聞いてやりたいんだよ。認めてやりたいんだよ。でもさ、オレが意見を押し切らないとエアロコンセプトに軸がなくなっちゃうんだよな」と。その声色は、先ほどの語気の強い声とは全く異質のものであり、静けさと優しさに満ちたものだったのだ。

 

 このとき、私は強く直観していた。「彼は、実は、リーダーとしての演技をしているだけなのではないか?」ということを。本当の彼には、深く広く優しい心で多くの人の多様な意見に耳を傾ける度量がある。しかし、もしそんなことをすれば、プロダクトとしても組織としても芯がブレてしまう。だから、彼は「わがままで頑固な」フリをしているだけなのだ。というのが、私が強く直観した推察である。しかし、これが全くの的外れでないことは、彼が宣言した「全員解雇」に「全員ついてくる」という事実が物語っているのではないだろうか。呆れられながらも、頼られる存在、それがこの町工場のリーダーなのだ。ときに独善的な彼の舵取りも、その底辺に果てしない優しさや思いやりがある。であればこそ、人を惹き付ける。彼には強い意志がある。同時に彼には深い優しさがある。群れのリーダーであれば、意志で群れを率いる方角を示す必要がある。ときには、優しさを消すことが優しさになる。多様な意見に声を傾けないことが強さであり優しさになるのだ。

 

 彼は、一悶着の後、職人たちのところに戻ると、お茶目な笑顔を見せながら、冗談めかして、こんなことを言ってみせていた。「オレには見えている未来、将来像があるんだよ。お前らは、まだ、わかってねぇんだよ。もうちょっと先まで行けば、お前らにだって、きっとわかるからな。ハハハハハッ」。

 

 金はない。けれど、アイディアと技術と知恵、そして深い優しさだけはある。そんなリーダーの精一杯の作戦が、「わがままを言い、意見を押し切り、諦めさせ、呆れさせる」というやり口なのだろう。そこにあるのは絶大なワンマン主義ではなく、絶対的な責任主義である。そんな彼の心の中には、きっといつもこだましている謙虚な台詞があるはずだ。「申し訳ないんだけどさ、ちょっとだけ辛抱して、オレの夢についてきてくれよ。何かあったときにはオレが全力で守るからさ。それにさ、きっと、お前たちのこと、オレが幸せにしてやるからさ」と。

 

 リーダー不在と言われ久しい国にあって、狡猾さだけが取り柄の組織の長たちは、今日も数字レースを続けている。狡猾な者が、さらに狡猾な者に騙される世界において、信用するに足る組織や人物は、増えているのか、減っているのか? その客観的データは測りようがない。しかし、私らが確かに察知していることは、それは人間的リーダーによる人間的強さや優しさに出会いづらい社会に生きているということ、である。

 

 企業のトップをはずれ、群れのリーダーに戻った菅野は、新生した工場をどこに連れていくつもりなのだろうか。それは、まったく胸の踊る話である。何しろ株式会社エアロコンセプトは、21世紀に残る、古き良き家族のような会社であり、尚かつ、古くて新しい発想の人間味あるリーダーに率いられている会社でもあるように、客観的な目には映るのだから。