一欲に絞る
菅野は、欲望にまみれた人間とは対極に立つ人間である。決してストイックなわけではないけれども、どちらかと言えば、質素な暮らし、素朴な存在の仕方を好む男だ。しかし、彼が無欲かと言えば、決してそんなことはない。彼をすぐそばで観察してきた人間として、これだけは断言できる。彼はいわゆる欲望、金や女に溺れたりする人物ではないことは間違いない。しかし、欲は持っているのだ。しかも人よりもずっとずっと大きな欲である。「オレはさ、日曜日にひとり静かにモノづくりしていると、一枚一枚自分の欲の皮をはいでいるような気分になることがあるんだ。そうしてドンドン無欲になっていくのが、何とも気持ちがいいんだ。」。菅野がこんなことを言っているのを聞いて、私は少し違和感を覚えていた。それで私は彼に言ってみたことがあった。「菅野さんが、”無欲”であるという風には私にはとても思えないです。」と。すると彼は、こんな風に返答をした。「俺にだって、欲はあるんだよ。たくさんある。ヴィンテージの車が欲しいとか、ジョン・ロブやウェストンの靴が欲しいとか、バシュロンの古い時計が欲しい、週2日は釣りに行きたいとか、スキーのシニア大会で優勝したいとか……。でも、そういう個人の欲も、お金に対する欲も、ぜんぶ闘って、削ぎ落としていかないと、本当に本当に自分が欲しいものというのは、見えてこないんだよ。俺だって、自分自身とけっこう辛い闘いをしているんだ。自分自身だけならともかく、他人が押し付けようとしてくる考えと闘うのはもっと過酷だしね」と。やはり、菅野は無欲の男ではない。彼は雑音としての欲を一枚一枚剥がして捨てて剥いだのかもしれないけれど、それは自らの欲の芯の部分「究極の欲」を取り出そうとしているからに過ぎなかったのだ。そもそも、「自分の欲しいモノ、自分のつくりたいモノをつくる」という彼の言葉の中には、明白に「欲」というニュアンスが含まれている。ただ、世間の人が言う「欲」と彼が想う「欲」との間に、大きなギャップがあるという、ただそれだけのことなのである。そして、菅野は自分の「欲」の姿を炙り出す名人でもあるのだ。彼の自分の「欲」の取り出し方は、非常にシンプルである。このやり方を知るだけで、きっとどんな人の人生も大きく変わる。真剣にやればやるほど、彼の使う秘伝のツールの効力は大きい。むしろ、菅野が自らを高めるために用いてきた黄金法則は、このひとつのツールだと言っても過言ではない。それは一体どんなものなのだろうか?
そのことは、菅野が自らのことを指して言うことのなかにも見てとれる。菅野は、「自分はデザイナーではない」と表現したり、エアロコンセプトを「売れるとは思ってもみなかった」と表現してみたり、「褒められてビックリした」と言ってみたりする。これらの言葉の数々は、彼が自分自身を謙虚に見せたくて、口にしている言葉の類いに聞こえるかもしれない。しかし事実はそうではない。ではどうして彼はこんなことを口にするかと言えば、彼は自分自身が何者であるかをクリアーに保ちたくて、自分自身の本音を改めて聞かせているのだ。つまり、勘違いして、デザイナー気取りをしてしまったり、ヒット商品の発案者として舞い上がってしまったり、他者評価の重みに自己評価を消してしまったりといったことがないように、自己を保っているのである。その意味から、菅野敬一という男は、一般の人よりもジッと自分自身の姿を見つめている。感情や陶酔に流されないように、事実のみを淡々と見つめている。その目はかなりの冷静さと客観性を持っている。そこには、「ありたい自分」という強い強い欲が存在するのである。そうすることで、彼は余計な欲にふりまわされないで済んでいるわけだ。ぶれないで一本の道を歩めるわけである。自分が何者であるか?ということに関して言えば、多くの人は、日々迷いの道を歩いているはずだ。上司や妻や友人の評価に翻弄されて自分を見失い、カメレオンのようにその姿を無意識のうちに変える。昇級やら転職をして名刺の肩書きが変われば、何か違う人物にでもなったかのような錯覚を覚えるし、ちょっとプロジェクトで成功を収めでもしたら、有頂天になり、悪い人なら威張り散らすなんて人だっているだろう。しかし菅野は、いつも、じっと自分自身を見つめている。だから、彼の生きる道は真っすぐなのだ。
もちろんエアロコンセプトという物体についても、同じことが言える。そこには余す所なく菅野の「欲」が注ぎ込まれており、菅野の「欲」しか注ぎ込まれていないと言ってもいい。有名百貨店バイヤーが提案してきた「肩かけストラップをつけた方が売れる」というアイディアや、「ホイールをつけてスーツケースのように地面に転がせる鞄」のアイディアを一蹴してきたのも、彼が自らの「欲」をしっかりと把握しているためである。しかし、それは何もモノのアイディアや設計や成型についてだけあてはまることではない。販売方法や世間に知ってもらう方法(俗にいうパブリシティ)やアンテナショップの出店地についても、彼は自らの「欲」を貫く。それを人は「こだわり」とか「頑な」とか呼ぶのかもしれないが、とにかく彼は「欲」をシンプルに保つ名人なのである。
例えば、エアロコンセプトには京都に旗艦店がある。これは、ある会社がマネージメントを行うカタチで実現したもので、菅野自身が経営するというお店ではない。エアロコンセプトに惚れ込んだ同店の出資者が菅野と提携するカタチで実現している専門ショップである。「エアロコンセプトの専門のお店を出すんだったら、ここしかないなって、オレ思ったんだよな。それでようやく決まったところだからさ、もし時間があったら、一度、のぞいてみてやってよ」。菅野にそんな風に言われていた私は一度、ここを訪れたことがある。行ってみて感じたのは、本当に菅野という人間は「無欲の大欲」ということを地で行く男でなんだ、ということだった。京都の細い路地裏を抜けなければ辿り着くことのできない、奥まったところにある町家づくりのショップ。そこはもはや商売の道を完全に逸脱していた。近年は、何でもかんでも「隠れ家風」という言葉をつけてお客を惹こうとする商法が、特に外食産業ではもてはやされてきたが、エアロコンセプトの店は、隠れ家風などではなくて、まさしく隠れ家としか言いようがないお店だったのだ。辿り着けるまでには心持ち不安にさえなるのだが、その場に着けたときの喜びは、宝物を求めて暗い洞穴を進む冒険家のようだった。「エアロコンセプトのお客さんがさ、京都の路地裏に迷って迷って、それでようやく見つけることができるっていうのも、面白いだろ?」、菅野はいたずらっぽく微笑んだ。普通、お店の出店となれば、お店らしく目立つ場所に出店してとか、富裕者層がある程度往来する通りに出すとか、ある程度しっかりしたつくりの建造物の中でとか、駅から徒歩数分でアクセスできてとか、様々な条件の中から出店場所を促されるだろう。当然、そうしたアドバイスは、菅野の耳にいくつも飛び込んできていた。しかし彼は、そうした声にオープンに耳を貸すことはあっても、耳を奪われることはしなかった。「エアロコンセプトをつくりはじめた当初から現在にいたるまで、色んなことを言われてきたさ。それは、今も大して変わらないよ。人は自分の責任のないところでは、好き勝手なことを言うもんなんだ。”これよりこうした方が売れそうですよ”とか、”これをつくるべきです”とか、いろいろな意見が出てくるんだよ。そこで、俺も迷うわけだ。”お金は儲かるかもしれないな。お金が儲かれば工場の仲間たちは喜ぶだろうな。だけど、俺はつくりたくない”と。そんなときは、”欲”と”本当に菅野が欲しいモノ”とを天秤にかけなくてはならないんだ」。
なるほど、聞くとこれは「世俗的な欲」と「自分の欲」の争い合いのようなものだ。つまり彼がしていることは、世俗的な欲からつくり手としての欲を切り分ける作業をしているのである。「でも、ひとたびお金になびけば、つくり手としての本当の自分というのは、どこまでも埋没いってしまうよね。お金を中心に物事を進めることに慣れてくれば慣れていくほど、どんどんお金中心主義の世界に埋没していくよね。でもさ、本音でつくったモノというのはさ。お金中心主義からは決して生まれないんだよ。つくり手がつくりたい一心でつくったものがあったらさ、誰だって欲しいだろ。特にモノの何たるかが分かっているのなら、なおさらさ。オレは世界のどこかの職人が、本気でつくったものがあったなら、最高の技術と心を込めてつくったものを見つけてしまったら、金額を抜きにして真剣に欲しい、手にしてみたいって思うよ。でもだ。もしそのモノが金儲けのためにつくられたのなら、まあまあなものだったとしても、必要から買うことはあっても心で買おうとは思わないだろうね。込められた想いや心っていうのはさ、埋没することは決してないんだ。どうしてなのかは上手く説明できないけど、心はモノを通じても世界へと伝わっていくものなんだよ。エアロコンセプトを取り巻く世界を見てごらんよ。取材したいって言ってくれる人も出てくれば、海外から取引したいって寄ってくる人もいる。オーダーメイドの製品をいくら払ってもいいから欲しいという人まで、いろいろ現れるだろ? 不思議なことなんだけど、心というのは伝わるものなんだ。京都のお店だって、あんな辺鄙なところにあったって、沢山の人が足を運んでくれているし、モノだってそれなりに売れているみたいだよ。つくり手として何より嬉しいのは、ああいう場所に買ってくれる人が何かを感じてくれることなんだ。オレはデザインについても、販売環境についても、マーケティングについても勉強した事がないけどさ、”モノに感じる心”は人並みに持ってるつもりだし、感じることこそ”モノの価値”だと信じているんだよ。よくウチの工場にもさ、エアロコンセプトの成功の秘密を探りたいとか言って、広告業界の人やらメーカーの人やら、お偉方もいっぱい見えるんだ。それで、”感性とは何か?”なんてありがたそうな話を聞かせてくれたりもするんだけどさ、突然、窓の向こうに現れた綺麗な夕焼けには目さえくれようともしないんだよ。もしもそんな感じる心がない人間がお客さんだったとしたら、つくり手としてもガッカリだからさ。京都のお店は、あえてああいう場所でいいんだよ」。
これまでも書いてきた通り、エアロコンセプトの支持者というのは、決して少なくない。いや、驚くべきほど多い。こんな数の支持者を何の広告を使うこともなく、マーケティングやブランディング戦略を練ることもなく得るのは、驚異的なことである。その成果を踏まえて、菅野はモノを広めるためには心を込めること、だと考えているのだ。モノを広めるには、想いを練り込むことが一番だと考えているのだ。否、そうであって欲しい、と願っているのである。そこに菅野の「欲」がある。
さて、もったいぶって、答えを書くことを避けてきたが、菅野が「欲」の姿を炙り出すために使っている黄金法則、最強のツールとは何か? それはこういう彼の次の発言に現れている。「自分自身をジッと見つめるために余計な"欲"という衣を剥ぎとっている作業さえ忘れなければ、道を誤るなんてことはないと思わないかい? そうやって自問自答を繰り返して、最後に残った”自分”、”菅野敬一がつくったAERO CONCEPT”を気に入ってくれたら、それが有り難いじゃないか。売れなくても100点、売れても100点。”売れないと40点"に思えてしまうなんて、どう考えたって考え抜いたものじゃない、余計な欲と嘘が混ざり込んでいるとしか思えないね。気に入った人に支持してもらえるっていうのは、それはそれで本当に嬉しいことだけど、”欲しいモノをつくる、つくりたいモノをつくる”ということが明確にできているつくり手にとっては、オマケみたいなものだよ。元々、100点満点のものをつくり続けるだけなんだよ。それがつくり手としての本音だし、オレの答えだよ。他人から勧められる欲、自分の中から湧いてくる欲。これらの欲と常に闘って自問自答して、自分を彫り出して、確保してやらないと、道がわからなくなっちゃうんだよ。だから、自分自身に問うんだよ。お前さんにとって、”欲しいものは何だい?”
”何が大切なことなんだい?” ”夢って何だい?” ”思いやりってどういうこと?” ”愛情ってどういうことだろう?”
”我慢から得られるものは?” ”それは有形なの?” ”それは無形なの?” ”豊かさって一体、どんなものだい?”ってさ。」。
さあ、そろそろ分かっただろう。彼がエアロコンセプトという成功のシンボルに辿り着くために用いた最強のツールというのは、「自問自答」ということになる。これは、直観や感性を重視して活用する方法であるが、思い付きとは正反対のものでもある。「自問自答」はときに考えたくもないことを自身に問う。耳をふさぎたくなるようなことや面倒臭いことを自分自身につきつける。しかし、これを続けると、欲はシンプルに研ぎすまされていく。自分が本当に本当にしたいこと、手に入れたいことは何か? それが姿を現すのである。究極の一欲への道は険しい。しかし、それを手にすることができれば、誰もが、安心のなかに穏やかな心持ちで道を歩んでいけるのではないだろうか。誰もが仕事や人生の中に心や想いや自分を込めることができるのではないか。そして、もはや、それは、成功の道の上に立っている、そう言ってしまっても過言ではないはずなのだ。