好きを知る

 

 

 菅野敬一にとってのエアロコンセプト菅野が自分の好きなものをつくって、その結果としてエアロコンセプトが世に生まれたことはわかった。究極の一欲からできていることもわかった。でも、そこでふと思うことがある。では、菅野の一欲を支えているものとは何なのだろうか? 菅野を集中させ続けるモチベーションとは何なのだろうか? ということである。私ら凡人が、夢に向かうとき、なかなか欲を絞り込むことができなかったり、集中できなかったりするのはどうしてなのだろう?

その点を探ってゆくと、きっと誰もが「好き」と「欲しい」ということを貫けないということにぶつかりはしないだろうか?

「好き」とか「欲しい」ということは、人を夢中にさせる力があるということだ。夢中にさせ集中させる力があるということだ。その力を理屈で説明するのは難しい。「俺はこれが好きなんだ!」「私はこれがしたいの!」と言うとき、そこにははじめからふたつの力が備わっている。そのふたつとは、「推進力」という力と「魅力」という力だ。菅野は言う、「何かをわざとらしく仕掛けるんじゃなくてさ。好きなことを夢中にしていたら、”何やってんだろう?”って、まわりの人間だって自然と気になるだろ? そんなに夢中になるなんて、一体、どんな素晴らしさが潜んでいるんだろうって、覗きたくなるだろう」。菅野の言葉から感じ取れるのは、「好き」や「欲しい」は自らを動かし、他者を引寄せるということだ。そして、その「好き」や「欲しい」は、それぞれの人間の経験、心に累積したものからしかはじき出されない。では、菅野の「好き」と「欲しい」とは一体、どんな経験から形づくられていったものなのだろうか?

 

 はじめて菅野にインタビューを行ったとき、彼は彼自身が触れてきて心酔してきた製品として、ライカやBMW、それから、古い映写機などを例として挙げていた。彼にとって、それらの製品群が価値高いのは、高価なものだからではなく、それらの製品が手に触れただけで嬉しくなるような製品だからだと言う。そして、さらにそれらは、使う度に心に触れる何かを感じさせる製品だからでもある。「いいモノというのは、モノが語るんだよ。職人が心を込めてつくったものというのは、細部に職人の心、設計者の心が表れるから、使い手が手に取るたび、何かを語りかけてくれるんだ」(菅野)。決して安くはない高い品質の製品だが、菅野がそれらのものに触れてこられたのには、父の存在がある。菅野の父は、最高のものに触れていたいと常に思っていた人物だったようで、自分ではBMWのバイクにまたがり、家では蓄音機にクラシックレコードを乗せてレコード鑑賞会を開き、息子には、最高級品のカメラ、ライカを与えた。そういうハイカラな気質を持った職人だったのだ。恐らく、菅野の父は自分でモノを生み出す職人として、本能的に逸品を求め、いつも傍にそうしたモノを置いておきたいと考えてもいたのだろう。日々、自分自身で良いモノを生み出そう、つくり出そうとする職人が、同じ職人、またはエンジニア、デザイナーの心を製品のなかに見出さないことは難しいのだろう。その意味においては、つくり手は必然的に、モノに対しての感受性が高いのである。自分が仕事で「何か」をはじめた途端、いきなり興味が高まり、視界がパッと開け、モノの見方が備わる経験というのは、きっと誰もが仕事やアルバイト、またはお手伝い等を通じて経験したことのある現象だろう。この現象を考慮すれば、モノづくりをしている職人にとっては、新しい素材や新しい技術に出会う度に、他ジャンルの製品の美が目に留るというのもうなずけることだ。「オレの父はそういういいモノが好きだったのは確かだけど、別にウチが大金持ちだったとか、そういうことではないんだ。単純にウチの父親はそういう趣味があったんだよ。好きで好きで、そのために仕事してお金を貯めては、買って手に取って、いじって喜んでいたんだよ」。しかし、菅野がこうしたクオリティの高い品々に囲まれて過ごした少年時代の経験というものは、エアロコンセプト製作には深淵かつ絶大なる影響を及ぼしている。それは疑いようのないことだ。この点から見ると、何気ない日々の中に「好き」と「欲しい」を感性に刻むということが、とても大切なことだと学ぶことができる。

 

 はっきりした因果関係はないかもしれないが、エアロコンセプトの製品の数々は、父の影響で優れた「好き」や「欲しい」に触れてきた菅野の感性が産み落としたモノであることだけは間違いない。

 

では、菅野の「好き」や「欲しい」は、一体どのようにエアロコンプトに映されているのだろう。それは、私があるとき菅野に聞いた「菅野さんにとって、エアロコンセプトって何ですか?」という問いの答えに隠されていたように思う。菅野の答えはこうだった。

 

「エアロコンプトには、何と言っても自分が居なければいけない。これはいつも言っている通りだ。自分が居なければいけないっていうのは、自分が欲しいモノじゃなきゃダメだってことだよ。それは整理すると次のようなことになるんだ。いいかい。」そう言うと、菅野は、コピー用紙の裏に次のことをほとんど迷うことなく書き出した。

 

1.好きでつくっているという議論の余地のない潔さと気軽さ。

 2. 好きでつくったエアロコンセプトがお題目となって、エンドユーザーそれぞれから、それぞれの切り口の答えが返ってくるモノであること。

 3.新品のときよりも使い続けて更に良く見えるものであること。つくり手と使い手が協力して、最後にモノ(材料)ではない別のモノ(愛のようなもの)になること。

 4.人の持つ能力、愛に対して、貨幣経済は下品であることを伝えられるモノであること。

 5.ものづくり屋として、気持ちを楽にして、本音で食べていける企業づくりへの挑戦を牽引するモノであること」。

 

 なるほど、菅野が箇条書きにしたものには菅野の美学が見事にまとめられていた。概念としてのエアロコンセプトは、あのゴージャスでセクシーでセンシティブなプロダクトそのものとは、少し印象が異なっている。しかし、これがエアロコンセプトを使ってみると、ひとつひとつが腑に落ちるものなのだ。

 

 私は、これら5つの項目を目にしたとき、自分の体のなかにエアロコンセプトを手にしているときの感触がよみがえってきた。普段は無意識ではあるけれど、確かに、彼が考えていることを感じていたのだ。そのことを私が言うと、菅野は補足するように語り続けた。「つくり手にとって、”自分の好き””自分の欲しい”を表に出すことは”自分が居る”ことの実践だと思うんだよ。それは別に職人じゃなくたって、そうだろ? 営業マンだろうが、企画マンだろうが、そこに自分がいるかいないかって、大切なことだよな? 好きでつくる”ということをすれば、それが一つの基準になることは間違いない。好かれようが嫌われようがね。その基準がなかったら、使い手は元よりまわりの人たちからの反応だって期待できるわけないのさ。つまり、どんなことにも自分を込めなければ、何の意味もないし、何も得られないんだよ」。

 

 なるほど、確かに大抵の日本人は自分の「好き」や「欲しい」を仕事に込めるのが不得手である。「みんなと同じ」とか「みんなの好き」をまず考えてしまいがちである。しかしそれは、一見、謙虚な仕事の姿勢に見えながらも、責任逃れをしているだけで、何の仕事もしていないのと同じというのだ。菅野が言っているのは間違ってもいいから、そこに自分の「好き」や「欲しい」を込めろということである。「好き」や「欲しい」が込められていれば、必然的に集中して仕事に力を発揮できる。「一欲」とは、つまり、自分の中に蓄積された「好き」と「欲しい」の結晶、集大成でしかないのである。

 

 菅野は自らの「好き」と「欲しい」について臆さず語る。「オレの好みのモノは、長く使い続けていくことのできるモノ、長く付き合えるモノだ。”費用対効果””安くて良い””早くて便利”、こうした言葉の結果として生産されたプロダクトばかりじゃ、悲しすぎるだろ? お金の都合によってだけ生み出されたモノだけの世の中なんて、あまりにも悲しくて、オレはそんな世界は嫌いだね。本来の常識を言うんなら、下請け工場に本音を言う権利なんてないんだよ。客先と客先にコントロールされた市場の本音に振り回されるのが、悲しいけど下請けの存在だからさ。でも、もしオレが工場のリスクを覚悟してでも、オレの本音、エアロコンセプトを通じたモノづくりを貫いたなら、企業存続が可能がどうか?

その挑戦は命をかけてでもしてみる価値はあるよな。」

 

 菅野は経験を通じて、自問自答を通じて、彼自身の「好き」と「欲しい」を磨いてきた。だからこそ、彼は「一欲」に突進できるのである。普通、多くの人は、それほど本当に好きなもの、本当に欲しいものを磨き上げることをしない。何となく好きなことに囲まれていたい、やりたいことをやりたい、と考えている程度である。好きを知っている人間と、好きを感じているだけの人間との差は、わずかかもしれない。しかし、人生という長い道のりにおいては、大きな大きな差が生じることを菅野は証明してみせている。

 

 「最近はさ、どうも人が自分の頭と足を使って”好きなもの”とか”やりたいこと”とか考えてない気がするんだよ。インターネットってのが、まあ、悪いんだろうな。口コミのサイトで誰かが書いたレビューみてさ、他の人が”好き”って言っているからとか、”美味しい”って言っているからとか、そんなの頼りに行動するんだろ?

せっかく自分の体に立派な五感を授かっていたって、それを目一杯に使おうとはしないんだ。星がいくつあるかを鵜呑みにして動くなんてさ、馬鹿のすることだよ。口コミサイトに、インチキなレビューを載せる専門業者が出てきただとかなんとかニュースで騒いでいるけどさ。そんなもん、サクラが出てくるのは自然現象だろうよ。昔っから、サクラってのは、モノを売る手法としてあったんだ。今ある広告だって、ほとんど、そうじゃねぇか。誇大広告だろ?

インチキなレビュー責める前に、人の意見だけが頼りの、情けない自分たちのことを責めろって。オレはそう思うんだ」(菅野)。

 

 現代という時代は「心を失った時代」と表現されることも少なくない。確かに、誰の意志も、想いも、研ぎすまされた欲もなく、ただ単に生活をやりすごす利便性向上のためだけに工場で量産された製品や、他人が薦めるレッテルが貼られたモノだけを、私らが平然と消費し続けているのも、現代人のモノに対する「好き」や「欲しい」という感性が著しく薄れてきてしまっているからなのかもしれない。モノに溢れた世界で生きながら、モノへの感性を失う。モノの洪水や時間の不足が、自分の「好き」や「欲しい」をおざなりにさせるのだとしたら、人間は幸福から少しずつ遠ざかっていることになるのかもしれない。何故なら、その人生には自分が居ないのだから。私は、胸に手を当てて、自分は自分の「好き」と「欲しい」を知っているだろうか? と考えてみた。答えはなかなか出なかった。しかし菅野と比べれば、その差は歴然としていた。もう少し自分の「好き」と「欲しい」をつきつめる価値はありそうだ。せめて、そのための心の余裕と時間くらいは持ちたい。菅野の軌跡を辿ると、自然とそんな気持ちさせられた。