こころをのこす
あるとき、菅野はちょっと変った顧客からのメールを受けた。メールの送り主は、アメリカ・ニューヨークに住む、ネイサンという名の若者からだった。彼のメールの旨は、日本人の常識から考えれば、少し「失礼」と感じさせる内容だった。
その内容というのは、次のような具合のものだった。「オークションサイトでエアロコンセプトを見つけて、どうしても落としたいと思っているのだけど、ラッチの部分(留め具)が壊れたまま売りに出されている。購入後、修理が必要だ。ネットオークションで落としたものを修理をすることはできるか? また、それはいくらくらいの修理代金が掛かるものなのか?」。普通の常識で考えてみれば、メーカーにこのようなメールを送ること自体、考え難いことだろう。ましてや、販路ひとつをとってみても、慎重に丁寧に決めてゆく頑固な職人が営むブランドを相手に、このような内容のメールは言語道断なのではないか? 最初にこの話を菅野に聞かされたとき、筆者は菅野が愚痴をこぼしたくて、口を開いた話だとばかり思っていた。ところが、聞けば、菅野はこの男に、「修理はできる。修理代は状態を見てみないと何とも言えないけど、高くても10万円にはならないだろう。元の商品は40万円以上する商品だから、10万円くらいで落として、10万円で修理したとしても20万円だから、かなりお得だよ。落とした方がいいよ」と、落札をアドバイス付きで勧めたというのである。ブランドの長が、正規の流通ルートではない、オークション落札のアドバイスをするなどという話は聞いたことがない。結果として、この彼は、約14万円という、想定よりはやや高めの値段ではあったものの無事落札し、4万円ほどの修理費を払うことで、エアロコンセプトを割安で手にすることが無事にできた。
この彼、連絡をしてきた時点ではニューヨークで働いていたが、実のところ、幼い頃に日本に住んでいたり、日本の大学院を卒業していたり、またこの先、日本の会社に就職することが決まっていたりして、日本とは随分と縁が深いようだった。あるとき彼が、来日した際に、井の頭線の電車の中で見かけ、一目惚れをして、所持者に勇気を出して声をかけ、「エアロコンセプト」という手がかりとなる名前をインプットして、ネットで探したあげく、ようやく入手した鞄なのである。まだ若く、財産などと呼べるものとは縁遠い彼にとっては、なけなしのお金で落札した鞄は、相当に嬉しかったものだったらしい。いかに日本社会の慣例から失礼であっても、そのあたりの図々しさは、積極性というアメリカ人的なDNAがそうさせているのかもしれない。いづれにしても、最終的にはハッピーに終わったわけで良い話だと一件落着もできる。
ところが面白いのは、菅野がこの彼に鞄を持ってこさせて、お茶やワインや薫製をふるまい、いろいろな話をした上で修理を受けたことだった。彼を門前払いで追い返さなかったばかりか、もてなして友達になってしまったのが菅野だった。筆者は菅野に誘われて、一度、この彼に会う機会があった。彼は、29歳で礼儀正しく、インテリジェンスな雰囲気を持った好青年だった。彼は、本当に大切そうにエアロコンセプトの鞄を使っていて、その魅力を流暢な日本語で語ってくれた。
「中古で買ったとしても、エアロコンセプトみたいな革の張られた製品は、きっと一生使えるものだと思うんです。だから、私は中古だって気にしないんです。その傷のひとつひとつが格好いいですから。言ってみれば、ジーンズみたいなものだと思うのですけど、ジーンズだと、いつかはなくなってしまいます。でも、その点、このエアロコンセプトはずっとなくならない。不滅のロングライフ製品だと思ったんです」。
なるほど、確かにその通りだ。それほど、エアロコンセプトに想いを持っているところを、きっと菅野は最初のメールの時点で見抜いていたのだろう。ところが、この最高とも言える彼の言葉を遮るように、菅野は言った。
「いや、エアロコンセプトだって、なくなってしまうんだんだよ。木や草と一緒でいつか地球にかえるようにつくったんだから」。
これを聞いたネイサンは、冗談を言っているものだとばかり考えたのか、爽やかに笑った。
「あははは」
「いや、オレはジョークで言っているんじゃないんだよ。本気なんだ」
「でも、そしたら、私は寂しいです。やっぱりこんなに素敵なものは、ずっとなくならないでいて欲しいじゃないですか」
「だけどさ、なくならないモノというのは、オレにとっては魅力的じゃないんだよ。オレや工場の連中が心を込めてつくってさ、それを誰かが欲しいと言ってくれて、使ってくれるじゃないか。そうしたら、またそれを誰かが見つけて、格好いいね、とかなんとか言ってくれてね。使ってる奴がそれを嬉しそうに自慢げに話すわけじゃない。それでさ、それを聞いた誰かさんは、いろいろ調べてみて、お店に行ったり、あるいはオレの工場に来てもらったりして、つくり手であるオレや工場の仲間に出会ったりするだろ。本当はさ、モノはただのモノだからさ、価値は物質そのものにはないって、オレは思うんだ。だって、エアロコンセプトだって、いくら、美しいですね、って褒めてくれる人がいたって、結局は材料を組み合わせただけのものだからね。それよりもさ、エアロコンセプトというモノを通して、このモノに込めた心に何か感じてくれて、人が心の交流することに価値があるんだよ。ネイサンとだって、こうやって出会えて、こうして一緒にお寿司を食べて、楽しく話をしてさ。このモノを媒介にして心が行き交うことにこそ、本当の価値があるんだよ。だから、いつかは、このエアロコンセプトだって、消えてなくなっていいんだよ。モノが消えて、心がのこったら、それほどいいことはないじゃないか」。
彼の言葉に大きな感銘を受けた様子のネイサンは、言葉に詰まっていた。グローバルな常識からかけ離れながらも本質を突いた言葉に、心を揺さぶられているような表情だった。
菅野が言いたかったことは、グローバリズムを先導するアメリカからやってきた青年にも真っすぐ伝わったようだった。渓流釣りを嗜む菅野はその釣りのお師匠さんから、「川に心をのこせてゆけるのは、菅野くんだけだよ」と言われたことは、前に書いた通りである。しかし、菅野が心をのこすのは、何も川の流れの中にだけではないのだ。日々の全て、毎日のやりとり、生きている時間の一瞬一瞬に言葉を残していく。
「いいかい、ネイサン。安いとか、便利とか、効率とか、そういうものはみんなみんな、人間から大切なものを奪っていってしまうんだよ。その大切なものっていうのは、心なんだよ。わかるかい? 心をのこすってのは、何もオレが特別な人間ということでできるんじゃなくてさ、誰にだってできることだろ? ちがうかい? ただ、今は、みんな、それをやろうとしないだけなんだよ。だから、オレは、便利だとか、効率がいいとか、そういうところから、なるべく離れようと思っているんだよ。それをエアロコンセプトには込めているつもりなんだよ」。
アメリカ人の青年は、この言葉を頷きながら、菅野の目をじっと見ながら聞いていた。後ろには、回転し流れゆくベルトの上にのせられたお寿司は、慌ただしくグルグルと目の脇を過ぎていっていた。菅野は、それを横目にメニューを眺めると、「おにいさん、これ獲れたてなんだろ。そうだよな。じゃあ、いわしとホタテ、3皿ずつ頂戴よ。」と注文した。ネイサンは、「菅野さん、ここ回転寿司のお店なのに、さっきからずっと板前さんに注文していますね。回転寿司でも、寿司をひとつひとつ注文するのは、何だかおかしいですね。」。ネイサンの目に、菅野の行動は珍しく写っていたのだろう。すると菅野は、愛嬌のある微笑みを浮かべながら、「だから言ってるじゃねぇか。心をのこすのが大事だって。あはははは。回転する寿しをただ取ってるだけじゃあ、コミュニケーションがないだろ? 人間は機械じゃないんだからな。心があるのが人間なんだから。」。
菅野が言っていることは、極めて当たり前の、極めて単純なことなのだ。人間には、心がある。その心をただ、ひたすら、諦めずにモノに込め、伝えてきた。それが菅野がエアロコンセプトを通じてしている全てなのだ。それが菅野を新しい時代の成功者たらしめてきた根本理由なのだ。これは、隠されてきていたようで、今も人がなかなかやろうとしない、ずっと開かれてきた秘密なのである。