菅野のインタビューを進めていく道のりは、決して平坦なものではなかった。菅野は、ときに「頑固」であるからだ。それは言い換えれば、「我が儘」という言葉にも言い換えられるし、「自分勝手だ」と言うこともできる。さらに言えば、「聞く耳を持たぬ者」という言い方もできるだろう。しかし、実際のところ、どうなのだろうか? 彼は自分の感性に対しての絶対の自信家でもあり、好き嫌いを自問自答で明確にできる経験と能力があり、常識を疑う力があり、ディグニティとプリンシプルを自分の中に持っているだけなのではないだろうか。
だからこそ、菅野は、誰にも承認される必要も、認定される必要も、許可を得る必要もなく、淡々と自分の好きなモノヅクリをし続けられる。それは、彼が孤独を愛するということにも通じる。つまり、彼は自分で自分のことを認めてあげることができて、自分で自分を認めてあげるだけで幸せを感じられる人物なのである。凡人的な感覚からしたら、誰かに認められたい、何とか外の評価を得たいと考えるのが普通だろう。「世界遺産」と聞けばありがたがってそこに出かけ、「ミシュラン」と聞けば食べ歩き、「トクホ(特定保険用食品)」と聞けば安心し、「Gマーク」がついていれば買ってしまう。しかし、彼はそれが気にならない。菅野を天才と呼ぶのならば、彼のその感性においてではなく(もちろん彼の感性は洗練されているのだが)、その絶対の自信において、天才なのだ。彼は第三者機関に認められる必要がないのだ。
筆者がそう感じたのは、彼と少々の意見交換があったときだった。それは、この本の出版に際して、彼がひとつの提案をしてきたときに感じたことだった。元々、読者としての自分を出発点にしたこの本は、一読者の領域から、菅野敬一に近づき、彼の秘密を盗もうというところに出発点があった。だから、決して、取材対象である菅野に手なづけられてしまってはいけない。そこに原点が置かれている。当たり前の話だが、本や記事というのは、どこかの企業カタログや記事広告とは違う。知恵の実という宝があると想定し、取材に出たならば、その宝を奪ってきて、その宝は元々ある出発地、つまり原点である自分やその周りの人で共有しなければならない。取材対象からは、宝は盗む。それがジャーナリスト、作家の役割だ。少なくとも、自分は、そう信じて文筆活動を行ってきた。取材対象者と結託して、情報発信をしてしまったら、それは目も当てられない、ただの広報本、PR本に堕落してしまう。そうした前提は編集の世界で生きてきた筆者にとっては当たり前過ぎる話であったのだが、菅野にこの本についての説明をしたときに、菅野は、モノヅクリをする職人らしく、こう提案をしてきたのだ。
「この本はさ、自分で出版してさ、長く時間がかかってもいいから、完璧な装丁の本にして、コツコツと売っていったらいいよ。妥協無しの本ができるよ」と。最初、この意見を聞いたとき、筆者は、菅野らしいなと思った。もちろん、筆者も、自分で出版するということについては、折りにふれて、何度も考えたことがあったし、それをすることで、内々の話をすれば、より利益には結びつきやすいことも知っていた。だが、菅野はこれを知ってか知らずか、そこに触れてきた。商業出版の書籍、つまり流通や販売のところで多く中抜きをされる書籍に関して言えば、世間が考えるほど著者へ戻ってくる印税は多くない。それどころか、とても少ない。オンデマンド印刷や電子書籍が幅を利かせる世の中では、利益という観点からは執筆者にとっては自力の出版は魅力的なのである。だから、もしかしたら、この本だって、そういう形を取って世に出るかもしれない。
しかし、筆者としては、自分で行う出版については、考えた末にやはり商業出版でいくべきだと、基本的な考えを持っていた。それは単純にISBNコードがないと流通には難しいということだけではなく、固定観念として、自費出版は「怪しいもの」として、自らの脳味噌にインプットされていたからであった。だから、菅野の意見に対しては敬意を示しつつも、4点の理由から丁寧にお断りをした。
ひとつは、流通に乗らないとメッセージが広がらないから。ひとつは、編集者や出版社の目を通して修正を得た方が本はよくなるから。ひとつは、世間的にも自分的にも「自費出版は怪しい」ものだから。そして、最後、これは心に秘めた想いであり彼にこのときは伝えなかったが、取材対象者に主導権を握られ、泳がされてしまっては、作家として生きていこうと考えている自分に対しても読者に対しても示しがつかないからだった。
しかし、菅野が興味深いのは、その点、つまり、筆者自身がそれほど深く深く考えたわけでもない点をついてきたところだった。
「いくつか質問していいかい?
1、自費出版のいい所と悪いところ、教えてほしいな。
2、ちゃんとした本として世間の人に認識してもらいたい、の真意。「ちゃんとした」の意味、これはどういうことなの?
3、編集者、出版人がつくと、客観性をもって伝えられると、あなたは言うけど、これ本当なの? 編集者出版社が居ることのほうが何故良いの?
4、芯さえブレず、伝えたいメッセージさえ伝えられ、なおかつ、それで内容が磨かれてより良くなるのなら、編集サイドが直しを要求してきても、構わないだなんて言うけど、それって、本気で言っているの?
オレなら自分の信じた文章の句読点いじられてもイヤだけどな。」
この問いに対しては、ある意味において、筆者もたじろがずにはいられなかった。何故かと言えば、菅野の自問自答力や究極の一欲に感銘を受けながらも、自分自身の足下を見てみたら、そこまで考え抜いていなかったからだ。そして、情けないことに、これを機に、自分はこの問いへ対しての自分への問答を行ったのだ。
そして、筆者が答えたのは、自力の出版は利益にはなっても世間的評価が得にくく、自分自身の中にもその存在に対しての偏見があること、「ちゃんとした」の意味は、オフィシャルな感触、商品としてのまとまり感、パッケージ感、プロのデザイナー、プロの校閲、プロの印刷所、そしてプロの編集者が一枚噛むことで、書かれたものがより立体的になること、編集者が入ることでの客観性は、ビートルズにとってのジョージ・マーティンというプロデューサーの役割であり、その必要性はあると感じること、そして、文章の句読点を直されることは、むしろ歓迎されるべきことで、多くの著名作家でさえ、かなりの修正を入れられて、二人三脚で本という作品づくりは行われていることなどを説明した。
すると、今度は、さらに深度をとった質問が返されてきた。
「なるほど、なるほど。 いつも質問する側に居るあなただから、突然の質問はきっとやりにくいんだよね。
1、自費出版の本は総じてレヴェルが低かったんだよね?
このオレについてを書いた本も自費出版となると洗練されてなくて内容も商品レヴェルも低くなるわけ?
2、ISBNコードが付くと一般書籍として認められている書物という意味なんだね?
読者には、国土交通省の認定品のような安心感があるわけだよね?
3、この本では、あなたが自分では気がつかなかったところ、抜けていたところ、視点などを「補って欲しい」と思っているの?そして、「補って欲しい」のはどんな理由からなの?
4、人に言われてはじめて気がつく自分の感覚。それは誰にでもあるよね。オレにもあるよ。
あなたは、この本を完成させるために、あと何人にくらいの「第三者の目」が必要だと思うわけ?」
筆者はまた考え抜いて答えを出した。その答えは、至ってシンプルだった。「1.まだこの草稿の状態ではダイヤの原石であってもっとよくなるから、現状はレベルが低いと思う、2.ISBNのついた本が単に流通に強いだけではなくて、個人的な憧れがあるということ、3.自分の能力不足、マルチな視点の欠落を認識していること、4.信頼できる人、ひとりいれば十分であるということ」。何とか、考え抜いた末に、こうした答えが出てきたのだった。元々、自分で自問自答していたわけではない。実はこのやりとりは、執筆者と編集者が行うやりとりであり、経営者とコンサルタント、ダンサーと振り付け師、役者と演出家、ミュージシャンとプロデューサー、ボクサーとセコンドがしている他問自答の形式である。これは、第三者の目があることで、自分の鏡となってもらい、自分自身を知ることができるわけである。これをひとりでやろうと思うと、難しいばかりでなく、自分に耽溺してしまっていればいるほど、自らにこれだけの鋭く厳しい問いを向けることは不可能に近いことだと感じる。つまり、本質的なこと、すでに常識だと信じていることに、改めて問いをぶつけることは非常に面倒臭いのだ。筆者は、何とか、これらの問いに答えることができた。そして密かに、安堵に胸をなで下ろしていた。
ところが、ふと我に返ってみると、もしかしたら菅野は、これをひとりで自分に対して行っていて、そのことを「自問自答」「常識を疑う」「プリンシプルとディシプリン」の礎に置いているのかもしれない?
と思えたのだ。実際に後になって菅野に聞くと「ああ、そうだよ、これは一番難しいし、つらいところなんだけどさ、オレはオレにいつもこういう質問しているんだよ」という答えが返ってきたのだ。
つまるところ、これこそが、凡人には、なかなか真似のできない点なのである。しかし、だからといって、ほかに方法がないと考えるのは早合点だ。あのスティーブ・ジョブスは、自らの手では何も生み出せないが、周囲の才能を駆使して、自らの究極の一欲として、それら才能のパッチワークとしてアップル製品をつくってきたのはよく知られることである。つまり、他者を鏡にして、自分の好きなものをつなぎ続けて形にする。そうすることで、自分自身の好きなものごとを抽出できるというのである。ひとことで言えば、天才としての菅野を凡人が真似ようと思えば、「他問自答」をする。このことを覚えればいいのだ。
このことについては、実は菅野も、本人に意識があるかないかは別にして、非常に頻繁に行っている。彼が工場に様々なジャンルの人々を呼んで彼らと会話を交わすことに対して彼はこう言う。「オレさ、いろんな人をここに呼ぶことで、いろいろ勉強させてもらってんの。ここに来る、いろんな人の話を聞くと勉強になるんだ。エアロコンセプトを手に取ったときの印象とかね。いろんなことを感じているんだよ」。実際のところ、エアロコンセプトの製作に、彼らの意見が間接にいかされているかどうかはわからない。しかし、少なくとも、菅野というフィルターを通しては、エアロコンセプトという商品に生かされているはずだ。
しかし、それでも、他者の目を活用しながらも、菅野は、自問自答の天才である。彼から、何かを学ぼうと思えば、真似しようと思えば、何よりも自問自答の力、もしくは、他問自答を身につけなければならないのである。天才から学べるとすれば、きっと、そういうとても目立ちにくい、とても地味な、とても評価を受けにくいことだけなのだ。しかし、このふたつの問答に共通しているのは、自分を抽出すること、好き嫌いをはっきりさせること、常識を疑うこと、孤独を愛することなのである。己を知り、己を炙り出す。菅野が行うモノヅクリの本質、成功の本質とは、きっと、そういうことなのだ。これが、22世紀の成功哲学のすべてである。
私は、取材開始時、自ら心に誓った通り、自らの立場から菅野という男を取材し、自らの目で菅野を書いてきた。決して、エアロコンセプトの広報文書、宣伝文書に陥らないように気をつけてきた。それをしてしまったら、「ルイ・ヴィトンというビッグネームに魂を売ってしまったエアロコンセプト」になってしまう。菅野は、いくら名前がないものであっても、名前があるものに対して毅然とした態度を取れることを教えてくれた。自主性を保つ精神、ディグニティとプリンシプルを保つ精神。その点から、この本はドキュメンタリーの立ち位置を保ち、「本当につくりたかった本づくり」としての商業出版の本を目指す当初の目的を失わないでいられた(その願いが叶うかどうかは別の話として)。ハウトゥを嫌う菅野を前にしながら、私が目指し続けた新しい「ドキュメンタリーなハウトゥ本」の境地に達することができたように思う。
これまで書いてきたことは、すべて本当の話だ。私の目線で見たという点において、嘘はない。菅野敬一という人物は、全面的に信頼がおける人間だし、男である。少々、風変わりなところやガの強さはあっても、めったに出会える人物ではなく、私は、心の奥深くから彼のことを尊敬している。だから、これを読んだ読者のあなたが、この物語をあなたの人生に活かしてくれることを願っている。厳しい時代に生きる我々に、小さなヒントのいくつかは、きっとこの物語の中にあったはずだ。私自身も、まだまだ闘い、遊ばなければならないこの人生において、この町工場の職人から、盗んだ実践の技を、楽しみながら、自らの人生に映してみたい。ときどき、自らの道のなかに活かしていきたいと思っている。
終